なぜ生命の起源を研究するのか (雑誌のインタビューから改変して転載)

--なぜ生命の起源を研究するのか?
 「生命とは何か?」は難問であるが、これにこたえる有効な研究法の一つが生命の起源を調べることです。生命科学の立場からは、生命を「進化する化学機械」と表現することができます。生命は、コンピューターと似て、ハードウェアとソフトウェアの二つの成分からできている情報処理機械と見なすことができます。主要部品分はハードウェアとしての生体触媒(=酵素)の本体であるタンパク質と、ソフトウェアとしての遺伝子の本体である核酸(多くの生物ではDNA)です。
 タンパク質は約20種のアミノ酸の重合体であるが、最下等の細菌からヒトまで、地球生命は皆同じ20種のアミノ酸を用いている。なぜ20種のアミノ酸に限られるのか、それらがなぜ選ばれたのかは明らかでない。同様に、核酸の塩基が4種である理由は誰にも答えられない。これらの基本的性格は、生命の起源とそれに続く初期進化の時代に決まってしまった。タンパク質が20種のアミノ酸の重合体である理由が知りたければ、生命の起源と初期進化を研究するしか道はないでしょう。

--なぜ好熱菌を研究するのか?
 30年前、もうもうたる白煙を上げる泉源の熱湯の中に細菌が住んでいることを知ったときの感激、感動がまだ覚めやまずというのが好熱菌を研究材料にしている本当の理由です。温泉と分子医学医療と聞くと、温泉療法を思い浮かべる人が多いことでしょう。ところが、遺伝子治療など革新的な分子医学と温泉が結びついているのです。1970年代から、手も入れられない80度、90度という泉源の熱水中にも細菌(好熱菌)が住んでいる事が分かってきました。最近は110度を超える温度でも増殖できる菌が知られています。 好熱菌から取り出した熱に丈夫な酵素を用いて、遺伝子を解析したり、特定の遺伝子を増幅することができるようになりました。好熱菌の研究が遺伝子治療や遺伝子診断に不可欠となって来たのです。おかげで好熱菌の研究にもいくらか光りが当たるようになりましたが、少し前までは、温泉の地獄や海底の熱水孔周辺に住む好熱菌の研究というと、「学者の個人的な好奇心を満足させるだけの研究」と軽蔑され、「それよりはガン克服のための研究を」というわけで冷遇されてきました。
 かって、消毒法の完成は外科手術の成功率を飛躍的に改善しました。消毒法は19世紀中頃、生命の起源に関するパスツールの実験から生まれたものです。これらの例は、研究というものが思いもかけない方向に応用されることを示しています。一見何の役にも立ちそうにもない純粋研究を支援することが、結局は難病に立ち向かう技術につながる近道なのです。技術や治療法の開発でも、「いそがば回れ」が当てはまるようです。

--日本の理科教育が危ないといわれていますが?
 ことの起こりは、高校の理科教育の制度が変り、理科3教科を履修しなくても卒業が出来るようになったことでしょう。そうなれば、少ない方が大学受験には有利です。大学が受験科目を減らしてきたことも一因で、例えば、化学に集中するため物理も生物を捨てた方が受験対策としては得です。こうして、医学部に生物を履修することなく入学してくるので、大学で高校の補習をしなければならなくなったというのです。これが重要な問題であることは異論がないが、議論は矮小化されている様に思います。医学部に生物を履修しないで入学出来ることが、特に重要な問題だろうか?私個人の意見としては、生物を履修する代わり、物理を捨てるくらいなら、理科的な論理を訓練することの方が重要であるから、数学や物理をしっかりやってくれた方がよいとさえ思う。理科教育の危機の本質は、頭脳が柔軟な若いうちに幅広い科目を受講してこないことでしょう。理科の教科だけでなく、国語や社会を軽視した学習をして、医療系、理工学系の学部に入学してくることが問題です。同じ問題は文系の学部にもあるはずなのに、誰も言い出さないのは不思議だなあと思う。「理科教育が危ない」のではなく「日本の高等教育が危ない」のでは?

--日本の大学の受験制度に問題があるのか?
 大学は世間に媚びて受験科目を減らしてきた。科目を減らしたことで、理系の学部を受験する学生は、国語や社会など全て捨ててきてしまっている。大学受験の年齢で国語も社会も捨ててしまったら、これからの日本では学者や技術者となっても、社会科学の著作など読まないでしょう。とすると、日本からはダーウィンやウォーレスのような独創的な学説の提唱者は生まれないのではないか(ダーウィンが進化論を思いついたのはマルサスの「人口論」を読んだことが契機であった。驚いたことに、貴族出のダーウィンと違い高等教育を受けていないウォーレスさえ「人口論」を読んでいて、彼もこれが進化概念を思いついくきっかけであったといわれている)。私には、このことが日本の理科教育の危機であると思える。このままでは、今に日本の自然科学者や技術者は社会科学にも人文科学にも何らの関心がなくなり、逆に、文系は科学オンチとなってしまう。

--解決策はありますか?
 解決策は簡単です。入学試験の科目を昔の様に増やせばよい。工学部の入試は、理科だけでなく、国語も社会も課すのです。第一、科目を減らせば受験地獄が解消するなどという荒唐無稽な案は、誰が考えついたのであろうか?まさか、大学人や教育関係者ではあるまい。しかし、科目を減らすと人手も経費も節約でき、入試が安直に行える。その上、私学では受験生が増えて、受験料稼ぎもできるから、どの大学も競って科目を減らすことになったのでしょう。入試は1科目しか要求しないところさえあります。高校生が左脳か右脳か脳の半分しか使わないという習性を身につけないよう、理系学部は国語や社会を加え、文系学部は理科を加えるよう、入試科目数を増やして欲しいですね。(聞き手:平山明彦)
(2002年5月 脱稿)