東薬大の10年 (「とうやく」東京薬科大学同窓会誌より加筆訂正し転載)
   大島 泰郎

走り回った10年
 とにかく忙しい10年でしたが、充実した時間が送れたことに感謝しています。教職員はもとより事務にもいろいろ迷惑をかけましたが、おかげで多くの重責を果たさせていただきました。ことに日本生化学会会頭は全学挙げてのご協力をいただきました。このほか思いつくだけでも、「ヒューマンフロンティアサイエンス機構」科学者会議副議長、科学技術振興機構{たんぱく質」の研究統括、「タンパク3000」推進委員会委員長などの大きな国際プロジェクトや国家プロジェクトの推進役、日本蛋白質科学会会長など学協会長、J.Biochem誌編集委員長、Proteins誌やアメリカ微生物学会誌などの国際誌の編集委員、それにポリアミン国際学会や第1回環太平洋蛋白質科学国際会議などの組織委員長など、やりがいのある職責をつめることができ幸福でした。

水島先生
 いきなり忙しかったと書きましたが、東薬大へ移るとき自分で実験できる生活を望んでいました。水島先生の急逝が状況を一変させてしまいました。水島先生との思い出なしにこの10年は語れません。先日、捜し物をしていて偶然、水島先生から最初のお誘いを受けたときの手紙が出てきました。消印は1992.10.02でした。
 水島先生は寿司に添えてある生姜がお好きで、学部構想の相談を受けていたころ、ある日例によって遅刻して応微研の教授室へ行くと「お腹がすいたので先に食べてしまった。話しながらになるが食べてください」と寿司が用意されていました。その話の途中で生姜を指しながら「君、それ食べないならくれない?」といわれたほどお好きだった。
 水島先生が亡くなられてから、それまでは眺めるだけだった生姜をつまみ、「お好きだったなあ」と思いながら寿司を食べるようになり、私も次第に虜になったようです。でも先日愕然としました。家族で寿司をとったとき、私の口から思わず出たのは、長男に向かって「お前、それ食べないなら呉れる?」

カルチャーショック
 東薬大には薬学部の多くの先生を存じ上げていたし、森前学長とはニューヨーク留学時代同じ大学にいたので東薬には親しみを持っていました。過去にも農学部や三菱生命研のように「文化」の違う場所を渡り歩いてきているので、東薬大で戸惑うことは何もないと思っていました。ところがいくつかの驚きが待っていました。
 たとえば、東薬大に来てからの私の口癖の一つは「日本には私立大学は存在しない」です。国立大学は設置者の文科省が見捨てることはないという甘えがあり、反対に私大は本当に切られるという切実な恐怖があるから、文科省に媚びると感じるほど意向のままになる傾向が強いと思います。実子は親は捨てないと思うから云うことを聞かないが、拾われた子は顔色を窺うようなものなのでしょう。そのほかいくつかのカルチャーショックがありましたが、狭い紙面には書ききれないし、文章にするには差し障りのあるものもあるようです。

これから
 研究面で東薬時代の前半は、前任地であった東工大の研究を引き継ぎ、いわばその収穫期でした。後半は新たな研究のステップを目指して芽を育てることができました。好熱菌探しでは、研究助成の審査を通して堆肥製造の(株)山有やその関連会社と知り合ったことが、従来にない新規好熱菌の発見につながています。
 ポリアミンの研究は東薬大に移るころは一段落したので停滞し、やがて一時は壊滅状況でした。国際会議からも足が遠のいていましたが、後半、ゲノム情報に立脚した逆遺伝学解析が当たり、久しぶりにゴードン会議に招聘されるまでに回復しました。今まさに宝の山を前にしている感があります。これから、民間の研究所に移り好熱菌とポリアミンを柱に研究室の立ち上げに向います。「大島研」を立ち上げるのはこれが4度目、何度もやり直しの機会に恵まれた幸運に感謝しています。
(2005年2月脱稿)